紀元前189年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 |
年 | 前192年 前191年 前190年 紀元前189年 前188年 前187年 前186年 |
紀元前189年(きげんぜん189ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元565年、マルクス・フルウィウス・ノビリオルとグナエウス・マンリウス・ウルソが執政官の年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
共和政ローマ
- 執政官フルウィウスはアエトリア同盟との戦争を担当し、マンリウスはスキピオ・アシアティクスの後継として小アジアを担当した[1]。
- ケンソルにティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスとマルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前196年の執政官)が就任、スキピオ・アフリカヌスを3度目のプリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)に指名した[2]。
- プロコンスルのルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクス、スキピオ・アシアティクスと、プロプラエトルのルキウス・アエミリウス・レギッルスが凱旋式を挙行した[3]。
- アンティオコス3世 (セレウコス朝)と和平条約を締結するマンリウスを補佐するため、使節団が派遣された[4]。
- ボノニアにラテン植民市を建設するための三人委員会が選出された[5]。
ギリシア
- アエトリア同盟はローマへの対抗力を失い、平和条約を結ばされた。アエトリア同盟の名前は残ったが、その勢力は条約によって失われ、政治的、軍事的影響力もなくなった。
小アジア
- 執政官グナエウス・マンリウス・ウルソに率いられた共和政ローマ軍はエウメネス2世に率いられたペルガモン王国軍とともに、アナトリアでガラティアを破り、属国とした。
- エウメネス2世によってアラシェヒルの街が築かれた。当時は弟のアッタロス2世の渾名「フィラデルホス(兄を愛する)」にちなんで「フィラデルフィア」と呼ばれた。
誕生
「Category:紀元前189年生」も参照
死去
「Category:紀元前189年没」も参照
脚注
注釈
出典
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参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
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